【エッセイ】子どもに紛れて遊ぶとき

子どもに紛れて遊ぶ幸せについて書いたエッセイです。
野島智司(マイマイ計画) 2023.12.26
誰でも

こんにちは。野島智司です。
先日、とある依頼原稿を〆切直前に書き終えたのですが、あろうことか、テーマを間違えて書いてしまうという失態をしました…!(ガーン)
その後、正しいテーマであらためて書いたのですが、このままではもともと書いた原稿がもったいないので、ここに載せることにします。

とある川

とある川

 よく晴れたある日、熊本県のあるフリースクールの活動にお邪魔した。子どもたちの自由な時間を大切にしているというそのフリースクールは、いつも古民家で活動しているそうだが、その日は野外活動の日ということで、大きな川のほとりにある公園に集まっていた。

 途中から訪れた私は、講師として自己紹介をするでもなく、ただ川の生きものの様子が気になって、まずはひとりで川の生きもの探しを始めた。膝まで浸からずに川岸まで歩くことのできる、浅くて遊びやすい川。小さな魚がたくさん泳いでおり、中州に滞留していた草をひっくりかえすと、小さなエビがたくさんいる。石をひっくり返せば水生昆虫やプラナリアがくっついている。

 私はそんな水辺の小さな生き物を観察するのが好きだ。持っていた野外用の実体顕微鏡を取り出して、川辺の岩の上にセットする。顕微鏡をのぞくと、小さなエビの頭が巨大に見えた。

「何を見てるの?」

 興味を持った子どもが近づく。「のぞいてみる?」と訊ねると、すぐにうなずく。顕微鏡をのぞかせると「うわぁー」と声を上げ、やがて「どこにいたの?」「ぼくもつかまえたい」と言い始める。あっという間に網を持って川に入る子ども。見つけ方を教えると一生懸命に探す。気づけば、そんな子どもが1人、また1人と増えていく。

 しばらく川で生きものを探して遊んだあと、今度は子どもたちの方からドッジボールに誘われて、しばし私が巻き込まれる。そうしてゆっくりと少しずつ、初対面の子どもたちとの壁が解れていく。最後には、どこから見つけたのか、シマドジョウの仲間やドンコなど魚までつかまえてくる子どもが現れた。

 終わってみれば何人もの子どもたちと関わることになったが、実はその日出会った子どもたちはフリースクールの生徒だけではなかったようだ。たまたま公園に遊びに来た親子も含まれていて、知らず知らずに誰もが川のほとりで遊び合う場が生まれていた。そんなとき、私は何とも言えない幸せな気持ちになる。

 私は自然に関わることが好きで、生きものが好きで、自然のもので工作をしたり、自然の中でねんどをしたり、絵を描いたり、詩を書いたりすることが好きである。市街地に居るときは、ふと小さな自然を見つけたときにほっとする。

 ただ、そんな私には1つ問題がある。他人の存在を気にし過ぎることである。他人が居るとなにか落ち着かず、自分の好きなことに没頭できないのだ。市街地で小さなかたつむりを見つけてしゃがみこみ、見入ってしまいたいこともあるが、人通りが多いとそれができない。絵を描くときも、詩を書くときも、誰も居ない方が良い。私が人見知りで引っ込み思案だからなのかもしれない。

 そもそも私は、子どもと関わることが得意ではなかった。むしろ苦手だった。今でこそ初対面の子ども相手に活動する機会が多くなったが、子どもと「遊んであげよう」とすると心を解放できないし、以前は子どもに対しても人見知りするようなところがあった。自分の「好き」を思い切り表現することが苦手だった。自己紹介をしたり、打ち解けるための「アイスブレイク」のようなテクニックを学んでみても、どこかぎこちない。

 そんな私が子どもたちと自分の好きなことを思い切りできるようになったのは、私が自分の好きなことをしていれば、ほかの子どもたちも自分の好きなことをして過ごしてくれることに気づいたからである。あるいは逆に、みんなが自分の好きなことをして自由に過ごしているとき、私も同じように他人を気にせずに、自分の好きなことを自由にできる。

 遊びは、他人からさせられるものではない。あくまで、自分のやってみたいことをすることが、遊びである。自由な学びの場や子どもの遊ぶ場では、私のような居方が肯定されるという安心感がある。不思議なもので、そうしたときは周囲から見ても「何かおもしろそう」という空気を醸し出しているようだ。興味を持った子どもが自然と私の周りに集まってくる。

 そして、自然に子どもとの関わりが生まれる。「遊んであげよう」「打ち解けなくちゃ」などと考えなくて良い。そうして生まれた関係の場合、たいてい名前を知る前に仲良くなっている。「別れ際に名前を聞く」ということは、大人にはあまりないのかもしれないが、子どものころは身に覚えがあるという人も多いのではないだろうか。

 私の造語だが、「あそびらく」という言葉がある。自分が夢中になって遊ぶことが、誰かの遊びを拓くという意味である。あそびらくことができると、結果的に別れ際に名前を聞いたり聞かれたりする関係が生まれる。そんなとき、私はとても幸せである。

無料で「自然と自然に出会う場所(野島智司ニュースレター)」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
【お知らせ】近況報告(オサガメ、オトキャンプ、こどもまなぶベース)
サポートメンバー限定
【フィールドノート】ツバキの種の笛
誰でも
【お知らせ】糸フェス、文フリ、オトキャンプ
サポートメンバー限定
【エッセイ】最後の自己紹介
誰でも
【フィールドノート】新学期はじまりました
誰でも
【エッセイ】SDGsは、私たちのもの
誰でも
【お知らせ】糸島子どもの権利ミニフォーラム2024
誰でも
【お知らせ】WEBエッセイ連載してました。