【エッセイ】SDGsは、私たちのもの
ここ数年で、急速にSDGsという言葉をよく耳にするようになった。
言わずと知れた、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)のこと。
持続可能な開発とは「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような開発」(環境と開発に関する世界委員会『地球の未来を守るために』,1987)のことであり、私としては、世のかたつむりたちのためにも、SDGsは推進されてほしいところである。
だが、あまりに急速に普及してメディアが使うようになると、モヤモヤするところがある。
たとえば、「SDGsウォッシュ」とか「グリーンウォッシュ」という批判がある。
一部で児童労働や環境破壊などに荷担しながら、それを言わずにSDGsに貢献していると訴え、クリーンなイメージを持たせることを「SDGsウォッシュ」と言う。こうしたものに「偽善だ」という批判はつきまとう。
そうした批判は必要だし、真っ当なものだ。
ただ、私がモヤモヤを感じるのは必ずしもそうした部分ではない。
SDGsは、放っておいてもやろうとしないことだからこそ、設定された目標なのだ。現時点で簡単にゴールを達成できるなら、SDGsなど言う必要もない。
批判は必要だが、偽善だと言ってすべてを否定するのも違うと思っている。
(同様に、「利権だ」という批判もよくある。でも、世界が変革されるならお金の流れも当然変わる。それを利権と呼ぶのなら、世界を何も変えることはできない。)
私のモヤモヤは、もっと別の部分にある。
メディアが盛んに「SDGs」と訴え始めたことで、私たち市民の側が、持続可能な社会をつくる動きに対して受け身の存在であるかのように錯覚してしまう。そのことに、モヤモヤを感じるのだ。
本来、SDGsは国や企業の広報のための道具ではない。私たちのものだ。
憲法によって国民が国家権力に制約を加えているのと同じように、SDGsは私たちが国や大企業に対して、未来へ責任を持つように訴えるための道具なのだ。
アオサギだよ。
私が環境問題に特に関心を持つようになったのは10代のころである。だからもう、30年前のことだ。(がーん…)
10代の頃は野生動物保護に関心を持ち、大検をとって大学生になり、環境教育というものを学んだ。その延長で、私は「持続可能な開発のための教育」(Education for Sustainable Development: ESD)というものの存在を知った。
「環境教育」というものに魅力を感じる一方で、一方的に知識を伝達したり、遊びを意図的に方向づけたり、行動の矯正に利用されたりする怖さを感じていた私は、居場所づくりなどの社会的な課題を包含しそうなESDに、微かな可能性を感じた。
ただ当時、気候変動こそ地球規模の問題として認識されるようになっていたが、企業やメディアが積極的に「持続可能な開発」などという言葉を使う未来は想像していなかった。
現在、「持続可能な開発」というややこしい言葉をこれだけ多くの人が口にして、それが価値のあるものだと認識されている未来は想像していなかった。
だから、SDGsという言葉が今、これだけ広まっていることには驚きもある。
「隔世の感がある」とは、こういうときに使うのだろう。
コブシガニの一種だよ。
SDGsが広まったこと自体は良いことだと思っている。特に、次の3点だ。
1.持続可能性が重要だということが、(建前上)国や自治体、企業を含めた共通認識になったこと
SDGsが大切だという共通の土台があることは、とても大きい。
このままではいけない。世界の変革が必要だと言うことを、少なくとも建前上はみんな認めているのだ。
2.多様な目標が「持続可能な開発」という共通のゴールに向けて結びつけられていること
たとえば、ジェンダー平等と生態系の保全が、どちらも持続可能な開発のために達成すべきこととしてまとめられている。
そうした一見遠いように感じる問題がともに必要だと、国や地方自治体、企業にも認識されているという事実は重要である。
(ただし、それらのつながりへの言及は乏しいし、目標の選択や適切性、それらのトレードオフ関係の問題など、ここにも懸念や疑問はたくさんある。)
3.具体的な指標があること
SDGsは17の目標ばかりでなく、さらに169のターゲットと、232の指標が定められている。
こうしたグローバルな問題は、言葉や理想は崇高であっても、実効性を伴わない場合がある。
だが、そうした批判の歴史も踏まえて、SDGsには指標があり、達成状況が毎年更新されているのである。たとえば、日本の達成状況はここで確認できる。
もっとも、それらの指標が適切かどうかなど、1つひとつの質は問われるべきである。
(私は特に4「質の高い教育をみんなに」の指標が不充分だと感じる)
ニホンアマガエルだよ。
問題なのは、SDGsが広報の道具になってしまったあまりに、私たちがSDGsに協力する客体のようになってしまったことである。(もっとも、あえて広報の道具になることでSDGsが普及した面もあるのだが)
ただ、忘れてはならない。
私たちは、国や自治体や企業の取組が不十分だと感じた時に、SDGsを道具として批判することができる。SDGsは私たちをなりゆきまかせの客体にするものではなく、自らの歴史をつくる主体にするものである。
SDGsは、持続可能な世界を実現するための、私たちのエンパワメントの道具であるはずだ。
本来、SDGsは私たちのものなのだ。
国も企業も、メディアだって、そのことを忘れないでいてほしい。
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