【エッセイ】止めるべきか見守るべきかという二元論を超えて

子どもたちとの関わりについて、二元論で「こうあるべき」と決めてしまうのは危険じゃないかという話
野島智司(マイマイ計画) 2025.02.15
誰でも

子ども間のケンカなどを、おとなが「止めるべき」か「見守るべきか」ということが、子どもの自由を尊重する立場からよく議論になる。

正直言うと私は、どちらの立場も、良くない意味で「教育的だなぁ」と思ってしまう。

なんというか、こうした「べき論」は、その場に自分がいない話に聞こえる。
シャーレの寒天培地に子どもを入れて、顕微鏡で観察しながら、薬剤を入れるべきか入れないべきかを議論しているかのようだ。

子どもたちが居るのは、シャーレの中ではない。私の目の前だ。
その場を共にしている時点で、子どもたちへの影響力を持っている。

すでに介入はしているのだから、「止める」という行動だけでなく、「見守る」という行動も、何らかのメッセージを含んだ子どもとの関わりである。

私は「こうあるべき」よりも、その場にいる人として、自分の感じた気持ちに嘘をつきたくない。

「いつも止めなきゃいけないわけではない」なら、わかる。
いつも反射的に止めてしまうだけなら、子どもたちは心に欲求不満を溜め込んでいくことになるかもしれない。

ことあるごとに思い出すのが、学生時代にゼミで教えてもらった言葉。

「必要と欲求と要求を区別する」というもの。

必要欲求要求

たとえば「あんパン買って!」という子どもの<要求>があったとする。そんな<要求>には、いつも何らかの背景となる<欲求>があり、そこには何らかの<必要>がある。

あんパンを買ってほしいという<要求>の背景には、単純に「おなかがすいて何か食べたい」という<欲求>があるかもしれないし、わがままを言うことで愛情を確認したいという満たされない<欲求>があるのかもしれない。

さらに、そんな<欲求>にも、背景となる<必要>がある。
「おなかが空いて何か食べたい」なら、必要なのは「栄養」かもしれないし、あるいは適切な養育環境かもしれない。愛情を確認したい満たされない気持ちがあるなら、そのニーズは「アタッチメント」や「人との深いつながり」かもしれないし、幼いころの「トラウマを癒すこと」かもしれない。

恩師の言葉の意味を私が勝手に解釈しているところもあるかもしれないが、こんな風に必要と欲求と要求の区別をすると、大切なのは、表層にある<要求>にそのまま応えることとは限らないと言える。

その<要求>がどんな<欲求>に基づくものなのか、さらに<必要>が何なのかを探り、何よりもその必要(ニーズ)を満たすことを考えたい。

人として、子どもの行為を止めることが必要な場面は確実にある。

暴力行為のような子どもの言動があるとして、周囲が受け止める必要があるのは、その行為(要求)そのものではなく、その子の欲求であり、その子の必要である。

必要と欲求と要求をごっちゃにして、暴力そのものを容認してしまえば、誰かの自由がなくなる。いわゆる「自由の相互承認」は失われてしまう。
他の手段で欲求を訴えることができるなら、本人にとってもそれがいい。

暴力はときにひどい心の傷を残してしまう。
身体的暴力でも、性暴力でも、言葉による暴力でも、態度による暴力でも。

そして心の傷は、大量の血が流れていたとしても、外側からは見えないし、人によって傷の残りやすさも違う。しかも、本人は隠そうとする。

そんな心の傷つき具合について、傍から見た印象で判断するのは危険である。

「あんパン買って!」と言われて、いつもいつもあんパンを買ってあげるわけにはいかないかもしれない。でも、他の手段で栄養を満たすことはできる。他の手段で、その子とのつながりを深めることもできるかもしれない。

冒頭の問いで言えば、「止める」「見守る」という二者択一自体が視野を狭めている。
その間に、たくさんの関わり方のグラデーションがあるはずなのに。

あんパンを買いに走らなくても、無下に拒絶しなくても、おいしいごはんを用意することもできるし、ハグすることもできるし、手作りあんパンを作ることもできるし、「私も食べたい!」と叫ぶこともできるかもしれない。空気を和ませ、場をゆるめる人がいても、あえて関係のない遊びを始める人がいてもいい。

教育的あるべき論は、現象に対しての反射のようなものでしかない。
それなのに、態度を一律に定めてしまうことへの抵抗感が、私にはある。

まずは人として、目の前で起こっていることに対して、自分がどんな気持ちでいるのか。どんなモヤモヤを抱えているのか。自分の自然な感覚を大事にしたい。

その結果なら、止めてもいいし、見守ってもいい。「こうあるべき」なんて考えなくていい。

自分の気持ちが大事だし、もっと大事なのはそこで終わりにしないこと。

その場を共にしている限り、さらに悩み、それぞれの欲求を、必要を、自分に問い続けていく。

悩みながら出てくる答えはいつも、二者択一ではないのだ。

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