【エッセイ】まじめな常識知らず

自分を「まじめな常識知らず」だと自認したことで見えてきたこと。
野島智司 2025.09.17
誰でも

最近、自分のことを「まじめな常識知らず」なんだと思うようになった。

そう思ったら、これまでの人生で腑に落ちる点が多いのだ。

私の性格は、どうやらけっこうまじめなようだ。

良い意味でも悪い意味でも「まじめだね」と、特に10代、20代のころはたくさん言われた。
今もしばしば、「もうちょっと、力を抜いて良いよ」というようなことを人から言われる。

与えられた課題をちゃんとこなそうと努力するし、ルールはしっかり守ろうとする方だ。人に嫌な気持ちになってほしくないので空気も読もうとするし、外れることには不安を感じてしまう。やるべきタスクをこなせずにたまっていくと、気にしすぎてうつっぽくもなってしまう。

その一方、小中高に通わなかった私は、一般常識とされるものに、ちっとも自信がない。
明文化されているものは大丈夫だが、たぶん、世の中で守るべきとされる暗黙のルールを知らない。

その点、あえて常識を破ろうとするタイプのロックな人(?)とは、性格がだいぶ違う。

「常識知らず」であることに無自覚な時代は「ただの人見知り」だけれど、歳を重ねるにつれ、社会生活をする上で不安になる場面も増えていった。
自分が当たり前のようにしていることも、人とは違うということに気づいていった。

「まじめな人は、常識もわかっているものだ」と、多くの人が思い込んでいる。
だから、一見「まじめ」な私は、人からびっくりされることも多かったように思う。

特に集団行動の場面を思い出すと、当時ギョっとされていたかもしれないなぁと思う場面がいくつもある。あぁ、あのときはごめんなさいごめんなさいと、フラッシュバックのように思い出す。

飲み会とか、合宿とか、行事とか、チームスポーツとか、グループでの活動とか……。

結果的に、私のことを「ふまじめ」と感じた人もいたんじゃないかなと思う。

今でも特にわからないのが、小中高校などの、学校における「常識」である。

「ホームルーム」って何。

「号令」って何。どうやるの?

授業中、生徒は何をやったらいけないの?

大学や大学院については、だいぶ通ったので、ある程度わかっているつもりである。
大学1年のときこそ、ノートの取り方もわからないし、ついていけるのか不安だったけれど、大きな問題は生じなかった。

ただ、小中高と大学はだいぶ違うということには、後から気がついた。
最初に苦労したのが、大学4年生のときの、高校での教育実習である。
まさに「ホームルームってなんですか?」という状況で、当時の担当の先生には心配をかけただろうなぁと思う。

オルタナティブスクールのような学校外の子どもの学びの場だったら、教育現場の「常識」がわからなくても大丈夫かと思いきや、そうとも限らない。
たいていは多かれ少なかれ、日本の学校のやり方をベースにしている。

多様な学びの場にふれてきたほうだと思うけれど、入学式を4月にして、4月始まりの学年というものを利用している場合がほとんどだし、授業のあり方とか時間割とか、学校的な要素はしばしば取り入れられている。

それらがダメだという話ではない。

ただ、そもそもどうしてなの?とは、ことあるごとに思う。

話が逸れるが、その点、海外の学校制度について知るのは面白い。

たとえば、ニュージーランドの小学校は、入学についての常識が日本とは全く違う。
5歳の誕生日になったら入学する権利を得られて、すぐに入学してもしなくてもいい。

だから、入学式もない。同じ学年だから同じ年齢とは限らない。
ニュージーランドでそうしているかどうかはわからないが、一人ずつ入学したタイミングで歓迎会みたいなことをするのも楽しそうだなぁと思ってしまう。

私は「まじめな常識知らず」だったがゆえに悩んだこともたくさんあるけれど、それゆえ経験できたこともあると思っている。

私は2010年から10年ほど、近所のこどもたちが自由に遊びに来られる「こうもりあそびば」を開いていた。それは、私が「まじめな常識知らず」だったからできたことだと思っている。

常識をわかっていてまじめだったら、大学院を途中でやめたりしないし、経済的な見通しもないのに想いだけで無償の場を作ったりは、「ふつう」しない。

かと言って、ふまじめであっても、自分の時間を削って「こうもりあそびば」を作ることはしないだろう。

「まじめな常識知らず」の私にとって、「こうもりあそびば」は象徴的な場だった。

私の人生における大切な経験だったし、心の根っこに今もある。

もっとも「常識」なるものは海外に行けばまったく異なるように、日本国内でも文化やコミュニティによって大きく変わる。

そう思うと、あらゆる常識のわかっている人なんて、この世にいない。
きっと誰もがどこかで「常識知らず」なのだ。

それなら、自分のことを「常識がわかっている」と思うより、「常識がわからない」と思っていたほうが、きっと多様な人を受け入れやすくなる。
だって、「常識」は自分の外側にあるものだから、固定的で変化させることが難しいけれど、ただの自分の思い込みなら、いくらでも変えられる。

「まじめな常識知らず」は、生きづらさもあるけれど、案外悪くないと思っている。

「まじめな常識知らず」だったことで、今の私があるのだから。

無料で「心にもっと、道草を。(野島智司ニュースレター)」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
【お知らせ】盛りだくさんの秋
誰でも
【お知らせとエッセイ】ラジオ出演情報ほか
誰でも
【エッセイ】駆け抜ける6,7月
誰でも
【お知らせ】『カタツムリの世界の描き方』好評発売中です
誰でも
【お知らせ】今週・来週末のイベント
サポートメンバー限定
【エッセイ】テスト勉強はズルいもの
誰でも
【お知らせ】『カタツムリの世界の描き方』(三才ブックス)のこと
誰でも
【物語】魔法立国ミテナイナ 第1話