【エッセイ】生きものとふれあうことの意味

バイオフィリアという概念から考える、生きものとふれあうことの意味
野島智司(マイマイ計画) 2024.03.13
誰でも

子どもが自然や生きものとふれあうことに、どんな意味があるのだろうか。
そもそもどうして、子どもは生きものとふれあおうとするのか。

あまり耳馴染みがない人が多いと思うが、バイオフィリアという概念がある。
これは、アメリカの社会生物学者エドワード・O・ウィルソンが1984年に提唱した概念であり、仮説である。人間が「生命および生命に似た過程に対して関心を抱く生得的傾向」とされる。「生命愛」などと日本語訳されることもある。ウィルソンは、私たち人間が自然やほかの生きものに対して抱く愛着のようなものは、生物多様性が豊かな地球の自然環境のなかで進化することにより生じた、生得的(生まれつきの)性質なのだという。

確かに実感として、子どもには生きものに対する特別な関心があると感じる。あるいは、あらゆるものを生きものとして捉えようとする志向性もある。それらをまとめてバイオフィリアと呼んでもいいのかもしれない。

バイオフィリアはあくまで仮説だが、単独で野外で生きていくことのできないほど弱い生きものなのが、ヒトである。それが弱い者を助け、相手の意図を汲み取り、協力する能力を進化させ、地球上でここまで大繁栄するようになった背景には、バイオフィリアが必要不可欠な心的傾向だったとも考えられる。

バイオフィリアはそれ自体重要な概念だが、そこから展開する現象にも目を向けたい。
私はフリースクールをはじめとしたさまざまな場で、子どもたちと生きものとの出会いを育む活動をしている。そこでは、子どもたちがバイオフィリア的に生きものに惹かれる瞬間が確実にある。

生きものに惹かれたその瞬間、子どもたちの意識は「今この場所」にある。未来の不安や過去の失敗から解き放たれ、心が「今この場所」にある状態というのは、いわばマインドフルネスの状態である。一般に子どもの遊びというのはそういうものだが、生きものは特にマインドフルネス的状態を引き出しやすいようにも思う。
マインドフルネス瞑想はブームのようになってもいるが、生きものとのふれあうことで意識が今この場所に来てくれるなら、生きものとのふれあいもまた、人が種々のストレスから解放され、身体的にも心理的にも健康を育む重要なものであるだろう。

次に、矛盾するようだが、生命への関心は「今この場所」にとどまらない。意識が未来にあるというのではなく、意識が今この場所に根付いていると同時に、未来に向かうベクトルとして存在している。なぜなら、成長途上にある生きものというのは、いつだってベクトルが未来に向いているのだから。
生きものに関心を向けることは、今と未来をつなぐ大切なものとなり、いわば未来を今と地続きのものにして、楽しみなものにする行為である。

さらに、そうしたプロセスを経ると、結果的に心が解放され、自然とそこで場を共有する他者とも、心がつながり合いやすい状態になるのではないだろうか。 それは自分自身を大切にすることにもつながり、やがてそこで立ち現れるのが、居場所である。

この一連のプロセスに根拠があるわけではないが、実感としてあると思うし、そうあってほしいという願いもある。いつかエスノグラフィーを分析してみたい。

心を育む自然というのは、そんなに豊かなものでなくても良いと思っている。

私は、思春期のしんどい時期、水槽の熱帯魚を眺めるのが好きだった。つらいことがあれば、水槽の中の熱帯魚をいつまででも眺めていた。

もちろんカタツムリに出会えたときは、カタツムリをいつまでも見ていたことは言うまでもない。

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