【エッセイ】週刊誌報道に関連して思うこと。
子どものころ、テレビのお笑い番組が好きでよく観ていた。そのせいか、コントは未だに好きで、今は東京03のファンである。
ところで、今はよく知らないが、昔のバラエティ番組では、男性芸人が女性アイドルの嫌がることをするようなコーナーがたいていあった。それがいつも苦手だった。おもしろいと思えなかったし、後から思い出して、幼心に嫌がっていた女性のことが心配で悲しくなったりした。今でも、当時そういうことをしていた芸人はなんか怖くて苦手だし、見ると思い出してしまう。
当時のお笑い芸人が仕事上の役割としてやっていただけなのか、本人も望んでやっていたのかはわからない。ただ、そんなシーンをおもしろいと思って作っていた人たちがいたことは確かである。
大人になった今は、性暴力の報道が苦手である。(戦争報道も)
いや、苦手というのも正確ではなくて、むしろ自分から引き込まれて情報収集してメンタルを削りに行ってしまう。気分が落ち込むのでSNSやニュースから離れるのがいちばんなんだけど、どうして気になってしまうんだろうか。
小川たまかさんのニュースレターを読むと、少しすっきりする。いや、「すっきり」も違う。モヤモヤした気持ちが整理される感じ。(あ、SNSを見るのはやめて、小川さんのニュースレターだけ読んでればいいのかな・・・。)
とは言え、報道自体は大事なことだ。かつてはスキャンダルにすらならなかったのだから。
SNS上の被害者バッシングには、いつもモヤモヤする。望まない性的行為をしてしまったら、ただでさえ後悔や自責感や自己嫌悪でいっぱいだろうに、バッシングする意味がわからない。
マスコミの記事を鵜呑みにして誰かを叩いてはいけないという主張であれば、わかるところもある。しかしそれも、すべてのニュースに「中立」で、常に「静観」していたら、社会問題にコメントすることはできなくなる。そして、誰も反応しなければ、何事もなかったかのように忘れ去られる。つい最近も、そんなことが大きなニュースになったばかり。
まして、マスコミの記事を飛ばし読みして被害者をバッシングするような言説については、野放しにして良いわけがない。
自然を眺めるのは癒やし
さて、話は自分の子ども時代に戻る。
私は大分県の山奥でのホームスクールで育って、家庭の事情で15歳ごろに東京に引っ越した。東京に移り住んだときにはあまりの環境の違いに大きなカルチャーショックがあったのだけれど、カルチャーショックを構成する要素の1つは、性にまつわることだった。
たとえば、電車内で寝ている女性の身体に触れる人や、盗撮している人を目撃したことがあって、とてもショックだった。私は当時、極度の人見知りだったので、そこでどうしたらいいかわからなかったし、ひたすら加害者をにらみつけて「見ているぞ」とアピールするのが精一杯だった。
盗撮犯を見たときに初めて、駅員に知らせるまでできたけれど、最初信じてもらえなくて、犯人が走り出してからやっと信じてもらえた。でも、逃げられてしまった。(逃げているときに雪道をすべって転んでいたので、痛い目にあって懲りたらいいのにと思った)
身の回りにいる同世代の男性のうち、少なくない数の人が性差別的な言動をすることにも驚いた。そもそも私は自分が「男らしくない」と自覚していて、自分が男性であることに違和感さえ持っていたので、つくづく男性性というものが嫌になった。男でいたくないと思った。
性暴力が、被害に遭った人の心に深い傷を残すことは明らかである。
その比ではないが、私みたいに<目撃しているのに何もできなかった>という経験を積み重ねることも、面前DVのようにじわりと心に悪影響があると思う。少なくとも、自己肯定感を削る。
ヤギを見るのも癒やし
自分も男性で、性欲がある。そんな事実もすごく嫌だった。
自分の中に加害者性があるような感覚。性嫌悪と自己嫌悪が同時に押し寄せてしまって、自分で自分のことをなかなか受け入れられなくなる。今でもそういう気分になることはある。
そんなこともあり、性にまつわることは、自己肯定感にも大きく関わる大事なことだと思っている。
包括的性教育と呼ばれるようなことが、自然に、当たり前に広まってほしい。男性にも女性にも、大人にも子どもにも、公教育の場にもそれ以外の学びの場にも。
昨今の性暴力の報道が、誰も理不尽な悲しい思いをしないために、有意義なものとなりますように。
開催・参加予定のイベント
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