【エッセイ】新しい学びの場の構想⑥ 遊びと学びが溶け合う論理
新しい学びの場の名称は「自然の学び場・エコトーン」でほぼ決まりかな……と思っていたのだけれど、ここに来て気持ちが変わってきた。
理由は2つある。
1つは、もう少し遊び心や物語性のある名前がいいなぁと思い始めたこと。
もう1つは、この場が「私自身の学びの場」でもあることが伝わるようにできないかな、ということ。
たとえば、「自然の学び場・ナゾマイマイ研究所」くらい遊んだ名前である。
むむむ。
とはいえ、「エコトーン」という言葉への愛着も大きい。
これはもう、運営する法人の名称を「エコトーン」に変えて、学びの場の名前を「ナゾマイマイ研究所」にするのが良いのかもしれない。
さて、そんな揺らぎのある構想シリーズも今回で6回目。
今回は、理論的背景について書いてみます。
▼これまでの構想①〜⑤はこちら
新しい学びの場の構想① 思いの原点
新しい学びの場の構想② 「小さな脱線」と「エコトーン」
新しい学びの場の構想③ 場所選び
新しい学びの場の構想④ 毎日の流れ
新しい学びの場の構想⑤ 「エコトーン」を必要とする人とは
「学ぶ」への思い入れと違和感

私は、「学ぶ」という言葉に思い入れがある。
だが、「学ぶ」という言葉は、しばしばとても狭く捉えられてしまう。
特に、「教育」と「学習」がセットで語られることが多い。
でも、人は育つ過程で自然に学ぶ。
誰かが教えなければ学ばない、というわけではない。
日本で育った赤ちゃんが、自然に日本語を話せるようになるように、育つ環境で必要なことを、人は自然に学ぶ。
テストで測れるようなものだけが学びではないし、勉強や授業によって身につけるものだけが学びではない。
私にとって学ぶとは、遊ぶということや、生きるということと、深く結びついている。
そんなふうに思うようになった背景には、構想①で述べてきたように、私自身が小学校からほとんど学校に通わなかった経験がある。
「学ぶとは何か」を問うこと

私は大学院生時代、子どもの学びにとって、自然にはどのような意味があるのだろうということを考えてきた。
そこでもし、学びを「理科」や「環境教育」のように限定して捉えてしまえば、自然とふれる意味も、限定的にしか捉えられない。
でも、子どもの自然と関わることの意味を、そんな狭いものにしたくなかった。
研究を続けていくと「学ぶとは何か」という問いを避けて通ることができなくなった。
ただ、もともと理系の学生だった私が、「学ぶとは何か」を教育学の研究室で問うことはとても勇気がいることだった。
けれど、ある日を境に、思い切って研究テーマを変えたのだった。
それ以降、「遊び」「学び」「自然」が私の関心のキーワードになった。
修士論文のタイトルは「遊びのコミュニティにおけるオルタナティブな学びの論理」になり、それは私自身の育ちを探る研究でもあった。
教育学の修士論文

学びを主体形成として捉えるパウロ・フレイレ(※1)の考えに共感しつつも、修士論文で中心にしたのは、正統的周辺参加論(※2)というものだった。
正統的周辺参加論は、徒弟制を基礎に、学習を実践コミュニティへの参加と捉える理論である。
平たく言えば、抽象的な物事を誰かに教わることが学びなのではなく、コミュニティの周辺から中心へと参加することが学びであるという考え方である。
一方で、私は実践コミュニティへの「参加」ではなく「逸脱」に焦点を当てた。
遊びのなかでは、既存のコミュニティで行われていることから逸脱する場面が多く見られ、むしろそこに価値があるのではないかと考えたからだ。
だから、逸脱も「学び」として捉えた。
そこには、「アプロプリエーション」(※3)という、既存の行為を自分のものにするプロセスがあったのだ。
さらに、それはコミュニティに新たな価値を生成するものでもあった。
そのときの修士論文の一部は、環境教育学会への投稿論文「遊びのコミュニティにおける自然との関わり」として発表している(※4)。
結局のところ、私はどのように育ってきたのだろうと、自分で自分に問い続けてきたのである。
でも、ただ自分の体験をふりかえるだけでは、論拠としては弱い。
そのため、研究として、既存の理論を下敷きに、実際の子どもたちとの関わりのなかで、それを再確認したというわけである。
(私は思春期にネガティブな経験もあり、それに基づく考えもあるが、そこについてはあらためて書きたい。)
遊びと学び

私は、自分の育ち方がユニークなものだったがゆえに、ずっと学びについて考えさせられ続けてきたと思う。
学びは教育によって作られるものではなく、人が生きるという営みそのものにあるという考えが、私の根底にある。
新しく作ろうとしている学びの場でも、人が持っている学ぶ力を信じることから始めたい。
以前は子どもの遊びについて考え続けてきた。
遊びは主体的な営みであり、本質的に誰かが外的に強制することができない行為である。
そして、学びもそういうものだと思っている。
本来、遊びと学びは切り離されたものではない。もともと両者は溶け合っている。
特に思春期になると、そのことが傍から見てもわかりやすくなる面もあるように思う。
例えば私にとって、数学の問題を解くことは遊びの一種だった。
「学ぶ」を問い続けられる場へ

ただ、現実には、遊びと学びが切り離され、学習を強制されがちな状況がある。
だからこそ、新しい学びの場は、「学ぶ」とは何かという問いを持ち続けられる場にしたいと思っている。
※1 パウロ・フレイレ【1921-1997】
ブラジルの教育学者。教育を知識の伝達ではなく、人々が対話を通じて世界を読み解き、主体的に変えていく営みとして捉えた。その実践を通じて「エンパワーメント」「ヒューマニゼーション(人間化)」という表現も広く知られる。
⇨パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房版は1979年)
※2 正統的周辺参加論
教育学者ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーが提唱した学習論。学習を個人の情報処理ではなく、社会的・文化的な共同体(実践コミュニティ)へ参加し、最初は周辺的な立場から徐々に中心的な役割へと移行していくプロセスとして捉えた。
⇨レイヴ&ウェンガー『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』(産業図書, 1993)
※3 アプロプリエーション(appropriation)
教育や学習の文脈において、「他者の言葉や道具、文化などの媒介手段を取り入れ、それを自分自身のもの(わがもの)として使いこなすプロセス」を指す。単なる模倣ではなく、自分なりの意味を付与して自分の言葉や思考の道具として再構築すること。
※4 野島智司(2009)『遊びのコミュニティにおける自然との関わり―主文脈からの逸脱と新たな価値の生成―』環境教育 19 (2), 58-70, 2009
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