【エッセイ】たまには政治の話を

右とか左とかではなくて。
野島智司 2026.02.06
誰でも

私は自分の政治的志向を、左右で言うなら、左だと自認している。
環境志向だし、ジェンダー平等も多様性も大事だと信じている。

だからと言って、右寄りの意見は全部ダメだ!とも思っていないところがある。
というか、(本来は)対立するものではないと思っている。

例えば、戦争をしたくないのは右も左もなく、ほとんどの人の共通した思いだろう。
ただ、そのための手法はさまざまである。

戦争を避けるために、強く大きな国と友好的関係を築こうとする考えもあるだろうし、敵対しそうな国より強く優位に見せようとする考えもあるだろうし、緊張関係にある国と信頼関係を築こうとする考えもあるだろう。
さらに、「強く大きな国」や「敵対しそうな国」をどこと想定するかも、考え方、感じ方の違いがあるだろう。

だから、右か左かは、たいていはアプローチ手法の違いに過ぎない。
どの考えも大事で、さらには両立する考えかもしれない。
むしろ、左右というより、上下左右いろんな方向からの想定こそ必要だと思う。

開きかけのオオイヌノフグリの花

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それより私が嫌だなと思うのは、本来は両立しなければいけない概念を、対立するかのように見せるやり方である。
別の考えを敵とみなし、レッテル貼りして攻撃するようなやり方。
あるいは事実から目を背けて、デマや差別を煽るようなやり方。

そうしたやり方が広まるにつれて、一般に政治的発言はしづらくなるし、自由が狭まっていく感覚がある。政策の幅が狭まって、極端になり、状況に応じた政策変更もしづらくなってしまうかもしれない。
それを「分断」と呼ぶのだとしたら、議会の多数派が右派に偏ることよりも、「分断派」に偏ることのほうが怖い。議会は話し合って結論を得るための場であってほしい。


けれども、近年は情報量が多すぎるせいか、多くの人が、何がデマや差別に当たるのかわかりづらくなっているのかもしれないと思う。
生成AIの登場も、その傾向に拍車をかけているのだろう。

例えば、ネット上に蔓延している「リベラルはダメ」「左はダメ」という十把一絡げにしたイメージも、一種のデマだと思う。

自然のもので小人の暮らしグッズを作ってみた

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ところで、私は政治的発言が控えめかもしれないが、そもそも「政治的」ってどういうことだろう。

私がしゃがんでじっとカタツムリを見つめていても、多くの人は政治的活動とは思わないだろう。

しかし、同じ行為も、状況によって政治的になる。

もしそのカタツムリの生息地が、何らかの政策によって失われようとしている場所なら、政治的活動になってしまう。あるいは、男性はカタツムリを見るべきではないという趣旨の政策がとられるようになれば、お前はそこで何やっているんだという話になる。

ある行動が政治的かどうかは、状況によって決められてしまうのだ。私の内心に関わらず。
ただ、カタツムリを見たいというだけでも。

いつか見ていたカタツムリ

いつか見ていたカタツムリ

今はたまたま私の行動が政治的に見えていないだけ。

私は私の思いで行動し、私の思いで投票したい。

私の日常が、日常でありつづけられるように。

投票日は、文学フリマ広島8の開催日なのだ。

投票日は、文学フリマ広島8の開催日なのだ。

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